特集インタビュー

日本の弁護士事務所からアメリカに留学した後、日本に帰らず現地ローファームで10年以上勤務した中町昭人さん。日本人弁護士が米国のトップクラスのローファームでパートナーとして活躍する前例はほとんどなかった。当然その道のりは平坦なものではなかった。中町さんは、いかにして壁を乗り越えたのか。常にグローバルな視点をもち、困難に立ち向かうその姿勢は、確固とした強い信念の表れだった。

京都大学法学部卒業、在学中に司法試験合格。1993年に弁護士登録後、森綜合法律事務所に入所し、97年、同事務所在籍中に米国留学。New York University School of Lawにおいて法学修士を取得後、サンフランシスコ、ワシントンDC、シカゴ、シリコンバレー、ロサンゼルスにて現地のトップクラスのローファームに勤務(2005年1月にパートナーに昇進)。2009年夏に13年振りに日本に本格帰国し、アンダーソン・毛利・友常 法律事務所にパートナーとして入所。

目次

  • リーダーシップ
  • 海外で働く

相手や話のバックグラウンドを理解することが
コミュニケーションには欠かせない

アメリカのトップ・ローファームで長年ご活躍されてきた中町さん。日本人として前例のないそのユニークなキャリアから、「自分の人生を自分自身で決める」という個人としてのリーダーシップが重要、と語ってくださった。

アメリカのトップ・ローファームで長年ご活躍されてきた中町さん。日本人として前例のないそのユニークなキャリアから、「自分の人生を自分自身で決める」という個人としてのリーダーシップが重要、と語ってくださった。

 10年以上にわたってアメリカのトップクラスのローファームで活躍してきた弁護士・中町昭人さん。現在の専門分野は、知的財産に関する交渉戦略の立案・遂行、契約書の作成、コーポレート分野(会社設立、ベンチャー投資、M&Aなど)、そして国際訴訟などである。アメリカだけでなく、インドやベトナムなどの新興国に進出する日本企業に対して総合的なコンサルテーションも行うなど、グローバルに打って出る日本企業を手厚くサポートしている中町さんだが、グローバル志向は子どものころからもっていたという。
 「日本的な上下関係などになんとなく違和感をもっていたし、人と同じことをするのが嫌という天の邪鬼なところもありましたから、他の子たちよりも早く海外に目が向いていたのかもしれません。海外、といっても、実際に行ったことはなかったので、テレビ『ウルトラクイズ』の印象などから主にアメリカのイメージしかなかったのですが(笑)」
 京都大学4年在学中に司法試験に合格、弁護士になったときにはすでにグローバルレベルでの活躍を目指していた。1993年春に司法研修所を卒業し、海外案件を扱う部門のある東京の大手弁護士事務所へと入所したが、意外にも英語の本格的な習得は遅かったという。日本の弁護士事務所で海外志向をもつ人はいわゆる「渉外(国際)部門」に入り、契約書の翻訳などの下積み作業を通じて地道に英語力を磨いていく、というのが通常だったのだが、中町さんはそれを選ばなかった。
 「翻訳をするために弁護士になったわけではないし、まずは裁判所での訴訟も含めて、日本の弁護士としての仕事の基礎をしっかり身につけたうえでアメリカに留学したいと思っていました。契約書が裁判官にどう見られるかを知らずに契約交渉するのでは弁護士としては欠陥がある気がして、『出るところに出る』、つまり裁判所での『切った張った』という場面も若いうちにしっかり経験しておきたかった。留学に行きたいという以上は事務所からはまず渉外部門に入ることを強く勧められましたが、留学してから本当の英語を学べばいいだろう、と思っていたんです」
 約3年半国内で仕事を続けた後、1996年にニューヨーク大学(NYU)のロースクールに留学した。
 「学校の授業レベルでは英語は得意なほうでしたし、それまでも事務所に来た外国人と英語で話したりはしていました。ただ、英語で仕事はしていなかったので、覚悟はしていたものの留学してからは随分苦労しましたね」
 徹底して英語の習得に心血を注ぐと決心した中町さんは、「英語だけで考え、英語だけで生活する。日本語は極力使わない」をモットーにした。当時NYUロースクールには日本からの企業留学生も30人以上いたが、日本人のグループとは一定の距離を置いて、ごく親しい日本人との会話も英語のみ、という「契約」をする徹底ぶりだった。そんな英語漬けの日々のなかで、英語を本当の意味で自在に使えるようになるには、いわゆる語学の知識だけでは足りず、アメリカという社会そのものに関するもっと深くて基礎的な知識と情報が不可欠だと気づいたという。
 「専門的な単語や文法に関する知識は、コツコツ覚えれば自然と増えていきます。しかし弁護士の場合、単に自分の言いたいことが相手に伝わるというだけではまったく不十分で、自分のクライアントと利害が鋭く対立している相手方の代理人であるアメリカ人の弁護士と交渉して、クライアントの利益を守るために説得できなければいけません。言葉で交わされる会話はあくまで表面的な部分で、いわば氷山の水面から上の部分にすぎません。利害の対立する相手方から見ても、本当に知的で説得的だと認めざるを得ないような強力な議論を英語で展開するためには、それを水面下で支えるための膨大な知識や情報が欠かせません。そのような『背景的情報』には、アメリカという国の歴史・文化・社会常識なども含まれますし、その場の議論の対象となっているビジネスの業界内の様々な情報や関連する特定の企業や人物に関する情報なども含まれます。こういった情報の多くは、アメリカで生まれ育って、現地で教育を受けている間に長年をかけて獲得されるものなので、それを30歳近くになって初めてアメリカに渡った日本人がキャッチアップして補おうとしても自ずと限界があり、途方に暮れることもしばしばでした」
 相手がどう考えなぜそう言ったのかを、言葉で聞こえる範囲だけでなく、その背景にあるものまで汲み取って正確に本意をつかまないとよりよいコミュニケーションはできない。同じものを見ていても、日本人とは違ったバックグラウンドをもった人は、当然日本人とは違った捉え方をする。ダイバーシティを肌で感じ理解しなければ、血の通ったコミュニケーションはできない。
 「文化や社会常識を得るため、ローカルなものを含め多くの雑誌、新聞を毎日読みあさっていましたね。ロースクールでも、授業はアメリカ人を含めて誰よりも多くとって、寝る間を惜しんで勉強しました。学校からは、『英語も大してできないのに、そんなに授業をとるのは自殺行為(suicidal)だ』と言われたほどでした(笑)」

自らの成長と国際競争力のヒントを探しに
シリコンバレーのローファームへ

自らの成長と日本の国際競争力回復のヒント探しのため、シリコンバレーの一流ローファームでの勤務に挑戦した中町さん。信念を貫いてその道のパイオニアとなった野茂英雄投手と藤森義明氏の姿に当時刺激を受けていたという。

自らの成長と日本の国際競争力回復のヒント探しのため、シリコンバレーの一流ローファームでの勤務に挑戦した中町さん。信念を貫いてその道のパイオニアとなった野茂英雄投手と藤森義明氏の姿に当時刺激を受けていたという。

 1年間に及ぶロースクールへの留学を終えた中町さんは、サンフランシスコ、ワシントンDC、シカゴのローファームで「客員弁護士」というポジションでの研修を計2年間経験。その後は所属していた東京の弁護士事務所に戻る予定だったが、中町さんは日本に戻らずアメリカのローファームでの勤務を選択する。それは日本人弁護士としては異例のキャリアだった。
 「アメリカに行く前に立てた目標が、“現地の弁護士と英語で対等に議論・交渉して、クライアントの利益を守れる弁護士になること”。しかし、2年研修を積んでも目標を達成したという実感はまだまったくありませんでした。では、当初の目標を諦めて帰国するのか? 自分はそれがどうしてもいやで、アメリカに残って目標を達成するまで頑張り続けたいと思ったんです。周りの誰もが反対しましたよ。帰国子女でもない日本人が、アメリカの現地の一流ローファームで生き残っていけるとは誰も信じていませんでしたから。僕自身も生き残れるという確たる自信はありませんでした。でもチャンスがあるのに、それにチャレンジすらしないで諦めて日本に帰るのは、自分自身として許せなかったんです」
 自らの成長という目標以外にも、中町さんが米国に残る決心をしたのにはある想いがあった。90年代後半、日本経済は低迷の一途をたどっていた。「日本は何かを本質的に変える必要がある。そのためには個人個人のレベルから変わらなければいけない」。そう痛感していた中町さんは、ドットコムバブルといわれ活況を呈していたシリコンバレーのローファームを目指すことを決意する。質の高いベンチャー企業を間断なく生み出し続けるシリコンバレーから、日本の国際競争力を回復させるために必要なことを学べると考えたからだ。日本人弁護士がシリコンバレーの一流ローファームで長期間勤務した例は当時まだなかった。
 「採用面接の前の日は、不安で一睡もできませんでした。『もし運よく採用された場合、お前は本当にやる気なのか?』と自問自答を繰り返し、朝方になっても答えが出ずに正直迷いをかかえたまま面接に臨みました。それでも、採用インタビューのなかで複数のエネルギッシュなシリコンバレー・ロイヤーと話をしている間にどんどんテンションが上がってきて、面接が終わった時には『絶対にここで働きたい!』と思っていましたね(笑)」
 結果、中町さんはシリコンバレーで最大のローファームであるWilson Sonsini Goodrich & Rosati (WSGR)で初の日本人弁護士として採用された。
 「『シリコンバレーを、日本でくすぶっている一流の技術や人材を磨いて世界市場に出していくためのインキュベーション・センターとして使えるはずだ。そのためには現地に日米双方の法律に詳しい弁護士も数人は必要だろう。それならば自分がその一人目としてチャレンジすべきじゃないか!』というビジョンとパッションが自分のなかに自然と湧き上がってきたので、それに是非賭けてみたいとそのとき思ったんです。日本では弁護士を起業家の枠に含めることはあまりないでしょうが、『他人のやっていないユニークなことに挑戦する』という意味では自分も一種の起業家のつもりでシリコンバレーを目指していたので、現地のトップファームであるWSGRからオファーをもらえた時は、感慨もひとしおでした」
 アメリカに行く前、密かに中町さんが目標としていた人物が二人いたという。中町さんの1年前にアメリカに渡ってメジャーリーグに旋風を巻き起こした、同い年の野茂英雄投手。そして米ゼネラル・エレクトリック(GE)で上席副社長にまで登りつめた藤森義明氏(現LIXIL代表執行役社長)。ともにその道では日本人の先頭を切って活躍したパイオニアである。中町さんも彼らと同じく、前例がなくとも信念を貫き、自ら考え抜き、道を切り開いたのだ。
 ロースクールと客員弁護士時代も含めると、合計13年間のキャリアをアメリカで積んだ中町さん。日本人がグローバルに活躍するための資質やマインドをどう捉えているのだろうか。
 「それは個人レベルでのリーダーシップだと思います。日本人に一番欠けているものとも言えますね。例えば自分の人生をどういう方向にもっていくのか、自分自身で決めるのも一種のリーダーシップだと言えます。前例がなくても、自分の頭で考え抜いたうえで自分で先頭を切っていく。自分で決めて、結果を潔く受け入れる。自分のやったことに責任をとり、周りの人や環境のせいにしない。今の自分にないことばかりを嘆くのではなく、まずは自分がコントロールできる範囲内で何ができるか、というところから出発するべきだと思います。そうやって、一歩一歩進んでいく気持ちがないと、グローバルに活躍することはできません。広い意味での『起業家精神』と言い換えてもいいと思います」

米国の厳しい環境での経験を糧にして
日本企業の海外進出をサポートし続ける

日本に帰国されてから始めたマラソンでは、サブスリー(タイム2時間台)を視野に入れるほどの実力の持ち主。この4月には世界的に有名なボストンマラソンにも出場予定だという。

日本に帰国されてから始めたマラソンでは、サブスリー(タイム2時間台)を視野に入れるほどの実力の持ち主。この4月には世界的に有名なボストンマラソンにも出場予定だという。

 ある意味「言葉自体が商売道具」といえる弁護士という職業。米国での勤務経験が長い中町さんから見て、日米でのコミュニケーションや交渉スタイルの違いはどこにあるのだろうか。
 「日本と米国、というよりも世界のなかでも日本はある意味ユニークな存在かもしれません。つまり、日本以外では、外交、交渉ごと、すべてが“パワー・オブ・バランス”の基本原理で成り立っています。お互いがまず100%のパワーでぶつかって、そのバランスを見てどこかに落としどころをつくる。日本では、むしろ譲り合いや引き算といった発想がある。アメリカでそれをやったら全部もっていかれます。国と国、企業と企業、個人と個人の間でもそうです。米国では、その本気同士の闘いを少しでも有利に運ぶためのウェポンが弁護士だという考え方ですね」
 こうした厳しい競争社会のなかで、米国で活躍する数少ない日本人弁護士としてサバイブしてきた中町さんだが、すべて順風満帆だったわけではなく、何度も悩み苦しみを経験している。そうしたなか2回、感涙にむせぶことがあったという。
 一度目は、シリコンバレーに行く前にシカゴで研修生として働いていたときだった。いよいよ、研修が終わるというときに、米国人上司が自分を部屋に呼んで研修期間中のレビュー(評価)をしてくれた。通常、そのような人事評価は次年度も働く人のために行うもので、これから辞めていく研修生に対しては異例のことだ。
 「ものすごく忙しいシニアパートナーの弁護士が、僕のような1年限りでもうすぐ辞めていく者のために時間を割いてレビューをしてくれるなんて、普通はあり得ないことだと思いました。良いところや弱いところを含めていろいろ指摘されたのですが、そのコメントの内容よりも、それまでの私の仕事に対する姿勢や内容に彼がプロフェッショナルとして一定の敬意を表してそういう機会を設けてくれた。それが話を聞きながら自然と伝わってきたことがものすごく嬉しかった。その時点でアメリカに来て丸3年経っていましたが、初めてアメリカの一流のプロフェッショナルから、同じプロフェッショナルとして対等に認めてもらったんだ、という思いがこみ上げてきました。それまでの苦労で負った精神的なダメージがその瞬間にすべて癒されていくようで、その場で号泣してしまいました。上司は、何か悪いことでも言ったと思ったらしく、驚いて謝っていましたけど(笑)、まったくの嬉し涙だったんです」
 二度目は、2005年、あの有名なスティーブ・ジョブズのスピーチに接したときだ。
 「すでにアメリカに来て9年以上が経っていましたが、ひとつステップアップするごとに次の壁が現れてくるんです。いつまで経っても『出口』が見つからないようにも思えて、本当にこれで良かったのかと思い悩んでもいました」
 そんなある日、帰宅途中の電車のなかで読んでいた『フォーチュン』誌に、ジョブズ氏の2005年のスタンフォード大学の卒業式でのスピーチが採録されているのを見つけた。
 「ジョブズ氏は“道なき道を自分だけを信じて堂々と歩いていけばいい”と話していました。あの有名な”Stay hungry, stay foolish.”で締めくくられるスピーチですね。それを読んで、自分がやってきたことは間違っていなかったと思ったんです。なんだかジョブズ氏に“よく頑張ったね。それでよかったんだよ”と肩をポンと叩かれたような気がしてすごく救われた気持ちになり、電車のなかでしたが涙をこらえきれませんでした」
 2005年1月に当時勤務していた米国大手ローファームのKirkland & Ellis LLPでパートナーに昇進した中町さんは、その頃までには留学当初の目標だった「英語を母国語とする優秀で経験豊富な外国人ロイヤーと、英語で対等に議論できるために必要となる基礎的な力」が十分に身についたと感じたという。最終的にはグリーンカードも手に入れたが、日本とシリコンバレーの間に「人・技術・お金」の切れ目のない循環を作る、というアメリカに残ることを決めた当初のビジョンに近づくには、まずは日本の優れた技術・人材の掘り起こしや育成をもっとやらなければ難しい、ということがそれまでの経験から明確になってきていた。また、これからの日本経済の成長を考えると、アジアや新興国への進出が益々重要になることが明らかで、自分としても日米以外の国にも仕事のフィールドを広げたいと考えたこと、さらに年齢が上がってきた3人の子どもにも日本人としてのアイデンティティをしっかりもって欲しいという気持ちも強くなってきたことにより、2009年夏に13年振りに日本に帰国。アンダーソン・毛利・友常 法律事務所にパートナーとして入所し、現在に至る。
 「米国にいる間は、基本的には進出してくる企業を現地で待つというスタンスになってしまいますが、実際に10年以上やってみて、やはり21世紀になってもまだまだ日米間のギャップは想像以上に大きいことがよく分かりました。つまり、いつまでも『待ち』の姿勢ではダメで、世界に出ていけるような人材・技術・ベンチャー企業などを日本で『発掘』し『育成』して海外に送り出すプロセスに自分自身が積極的に関っていかなければならない、と次第に強く感じるようになったんです」
 帰国して4年近くが経つ中町さんだが、帰国の際にイメージしていたような仕事がいまできているのだという。
 「海外はアメリカだけでなく、インド、中国、ベトナムなどの案件もあり、また非常に高いポテンシャルをもって世界を目指している複数のハイテク・ベンチャー企業とも緊密な関係で仕事をさせていただいています。企業規模に関わらず、これから多くの日本企業は本当の意味での国際化をしていかなければなりません。アメリカで13年に亘って色々苦労しながら身につけたことが、帰国後の今の仕事でもそのまま役立っているのは、そのような時代の流れも強く影響していると思います。これからも、世界中でビジネスを展開する日本企業に対して、自分自身のユニークな経験に基づいた付加価値の高い戦略的なアドバイスを提供してサポートしたい。それが20年前に弁護士になった当初からの一貫した想いですね」
 多忙な仕事の合間を縫って趣味でフルマラソン、トライアスロンもこなす中町さん。「毎月、何か大会やレースに出ていますよ」と笑う。そのバイタリティは尽きることがない。

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