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いくつもの国際機関を渡り歩いて見えてきた日本人の力、魅力、存在価値 赤阪清隆 氏 公益財団法人フォーリン・プレスセンター 理事長いくつもの国際機関を渡り歩いて見えてきた日本人の力、魅力、存在価値 赤阪清隆 氏 公益財団法人フォーリン・プレスセンター 理事長
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いくつもの国際機関を渡り歩いて見えてきた日本人の力、魅力、存在価値

外務省から国際機関への出向は計4回。P4という比較的下位レベルの職員から、国連本部広報担当国連事務次長まで務めた。外交官として、国を代表して折衝する立場も経験した。大阪府下の自然豊かな村で育ち、さまざまな角度で国際政治の現場に身を置いてきた赤阪さんは、多様な視点で国際社会を見る。日本のプレゼンスが落ちてきた今こそ、若い人達は内向きにならず、世界を見てほしいと語りかける。

    プロフィール
    赤阪 清隆(あかさか・きよたか)
    1948年大阪府生まれ。京都大学法学部卒。英国ケンブリッジ大学にて経済学学士及び修士号取得。1971年外務省入省。在マレーシア日本大使館、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)事務局、世界保健機関(WHO)事務局に勤務。1997年に大臣官房外務参事官(後に審議官)兼総合外交政策局国際社会協力部に任命され、京都議定書の交渉に当たる。国連日本政府代表部大使、サンパウロ日本国総領事、経済協力開発機構(OECD)事務局次長を歴任。2007年国連広報担当国連事務次長。2012年国連を退職し、現職へ。

    日本バッシングのなかで国際機関の職員に

    外務省からGATT、WHO、OECD、そして国連広報担当など、様々な国際機関に出向してグローバルに活躍されてきた赤阪さん。

     私がスイス・ジュネーブの国際機関日本政府代表部の1等書記官から、GATT(関税及び貿易に関する一般協定事務局=WTOの前身)に出向したのは1988年です。
     当時アメリカでは、性能のいい日本の小型車が売れ、基幹産業である自動車産業に脅威を与えていました。そこで、通商法スーパー301条を発令して、報復的に関税を引き上げるというのです。アメリカ国内には激しい日本バッシングがありました。
     そんなとき、日本の倉成正外務大臣から日本代表部に、GATT事務局に日本人職員を2人増やせという訓令が下りました。私はその担当参事官として、何度もGATTのダンケル事務局長に掛け合ったのですが、「優秀な若手がいたら」と木で鼻をくくったような対応でした。一方、東京からは繰り返し問い合わせが入る。とうとう自分で手を挙げて行くことにしました。採用のランクはP4で、40歳という年齢のわりに低いレベルでしたね。
     私はそれは気にしませんでしたが、国際機関は大変そうだと思いました。ところが、行ってみたら素晴らしい環境で。窓からは遠くアルプスの山並みが見え、その下にレマン湖が広がり、白鳥が泳いでいる。同僚は昼休みに、夏は湖をウインドサーフィンで往復し、冬はスキーを楽しんでいる。外務省時代は朝出勤すると深夜2時、3時まで帰れない。家族や友人と食事の約束もできなかった。それが夕方の6時にはピタッと仕事が終わる。イースター休暇、クリスマス休暇はそれぞれ1週間、夏休みは1カ月も取れるんです。国際機関で働くことが大好きになりました。
     そのかわり仕事は厳しかったですね。若手のうちは、さまざまな仕事を与えられる。会議の前にペーパーを準備し、会議に出てメモを取る。それを2、3日でレポートに仕上げます。退屈な演説も聞き漏らすわけにいかないんです。もちろん、すべて英語です。
     1年後、貿易政策審査を担当することになり、1人でアメリカを受け持ちました。アメリカ政府からボックスいっぱいの書類や書籍が届く。それを読み、半年で仕上げるんです。しんどかったですね。
     表向き、国際機関の職員は母国の国益の影響を受けてはいけません。でも、今だから言えますが、アメリカをやっつけてやれという気持ちがありました。しかし、アメリカ人の幹部に、アメリカ批判が強すぎるとばっさり切られて。発表後『フィナンシャルタイムズ』には「GATTはアメリカを批判するチャンスを逃した」と書かれました。初めての貿易政策審査で、GATTも及び腰でした。
     2年後の2回目のアメリカの貿易政策審査も私が担当したのですが、このときは、ドイツ人の上司と相談して、スーパー301条の問題点などを指摘できた。メディアにもほめてもらい、「ざまあ見ろ」と思いましたね(笑)。

     

    理想主義、実力主義、個人主義の力

    イラストの腕前もプロはだしの赤阪さん。国際会議で時間ができたときなど、人物や風景画を描くという。(ご本人によるパリのOECD本部)

     4年間勤務して、いったん日本の外務省に戻り、希望してWHO(世界保健機関=ジュネーブ)の事務局で中嶋宏事務局長の補佐役として勤務しました。
     ミャンマーではポリオの予防接種キャンペーンに参加し、1歳くらいの女の子にワクチンを打たせたことがあります。周囲の赤ちゃんが大泣きしているのに、ニコッと笑顔で見返してくるんです。この子は一生、小児麻痺にかかる心配がないのだと思うと、うれし涙がこみ上げました。
     95年、ザイール(現コンゴ民主共和国)キクウィット村でエボラ出血熱が発生して、1カ月たらずで250人の村人が亡くなったことがあります。WHOが国際医療チームを組織して制圧しました。私も事務局長に同行して現地入りし、まず、独裁者モブツ大統領を訪ねました。ところが20時間以上も待たされて、参りました。それが現地に入ると、村人がWHOの車を取り囲み、口々に感謝の気持ちを伝えてくるんです。感動しましたね。
     国際機関で働く魅力は、理想主義であり、実力主義であり、良い意味でも悪い意味でも個人主義であることです。もちろん、日本の行政官も使命感をおもちだと思いますが、WTOは自由貿易を目指す、WHOは世界から病気をなくすと、国際機関はより目的がはっきりしています。それを実力主義が支えている。自分に力があると思えれば、やりがいのある面白い仕事を次々に形にすることができるのです。
     その後、また外務省に戻り、97年には、地球温暖化防止のための京都会議に日本政府の交渉団代表を補佐する立場で出席しました。2008年から12年までに日本は温室効果ガスの平均排出量を6%削減するという案に合意する予定でした。この数字には森林による二酸化炭素吸収分、3.7%も含まれるという主要国間の合意を前提としていました。ところが、交渉最終日、議長は若干の反対意見を受けて、その前提を覆したうえで決定を宣言してしまった。3.7%分を別に削減するには、約3兆円が必要になります。日本代表団は夜を徹して関係各国の代表団や議長と再交渉し、当初の合意案を実現したのです。

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