Global Frontline~グローバルな舞台でチャレンジする人たち~

平井千貴氏平井千貴氏
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「おもしろそう」「やってみたい」という気持ちを大切に、ドアをたたいてみる

平井千貴さんは故郷である岡山市内の公立中学校を卒業後、単身スイスへ渡り現地の高校(スイス公文学園高等部)で学び、その後アメリカの大学に進学・卒業、現在は日本アンチ・ドーピング機構(JADA)の国際部部長として世界各国を駆け巡る忙しい日々を送っています。しかし、そうした経歴とは裏腹に、「子どものころは英語もそれほど得意ではなかったし、世界を舞台に活躍したいなどと考えたこともなかった」と語ります。そんな平井さんが現在のキャリアを築くに至った背景にはどんな出来事や出会いがあったのでしょうか。

    プロフィール
    平井千貴(ひらい・ちか)
    岡山市の公立中学校を卒業後の1990年、単身スイスに渡り同地に開設したばかりの文部科学省認定の在外教育施設であるスイス公文学園高等部(KLAS)に1期生として入学。KLAS卒業後はアメリカの大学に進学しスポーツ医学を学ぶ。大学卒業後は日本に戻り、アスレティックトレーナーを育成する専門学校に勤務。2006年に日本アンチ・ドーピング機構(JADA)へ入構し、日本におけるドーピング検査プログラムの責任者を務める。現在は、JADA国際部部長として世界各国を往来する日々を送っている。

    アメリカの大学を3年で卒業後、就職のために日本へ帰国

     大学への入学が決まった時点で私が強く決意していたことが一つあります。それは、3年で卒業すること。早く社会に出たかったというわけではなく、もっぱら経済的な事情です。

     高校の3年間をスイスで過ごさせてもらっただけでなく、その間も様々なところへの旅行や海外でのホームステイなど、日本で普通に高校生活を送っていればできなかったような経験をたくさんさせてもらいました。でも、その分、日本で高校に通わせるよりも大きな金銭的負担をかけてきたはずです。更に、選んだ大学が私立ということもあり、早く大学を卒業しようと決意しました。

     そんな私にとって幸運だったのは、大学で紹介されたホストファミリーのホストマザーが私の通う大学の卒業生でもあり、かつ、事務局で働いていたことで、効率的に単位を取得するための計画の立て方などのアドバイスをもらうことができたことでした。更には、偶然にも学科の指導教授が日本好きの方で、専門用語習得等様々な面で支援をしてくださいました。とはいえ、当然ですが勉強そのものの負担は軽くなるはずもなく、今振り返っても大学時代の3年間は人生で一番勉学に励んだ時期だったと思います。懸命に努力した甲斐あって、無事、1996年に目標通り3年間で大学を卒業することができました。

     大学卒業後は、アメリカで就職することも考えたのですが、指導教授から、日本でアスレティックトレーナー養成のための専門学校の求人が公募されているという話を聞いたのと、同時に様々な状況も重なり帰国しました。帰国後ではありますが、1997年には、アメリカのアスレティックトレーナーの国家資格にも合格し、ようやくアスレティックトレーナーとしてのスタートラインに立つことができました。

    大学でのアスレティックトレーナー・プログラムの仲間と

    大学でのアスレティックトレーナー・プログラムの仲間と

     アスレティックトレーナーとは、普段の健康管理からケガ予防のトレーニング、ケガをした際の応急処置から治療後のリハビリテーションまで、その業務の範囲は多岐に渡ります。アスレティックトレーナーというとトップアスリートのために存在するように思われがちですが、プロスポーツチームだけでなく、高校や大学のチームや、トレーニングジム、病院などで活躍している方も大勢います。

     ちょうど私が大学を卒業した1990年代末くらいから日本でもアスレティックトレーニングが注目されるようになり、アスレティックトレーナーを養成する機関が増えつつあったのです。一方でアスレティックトレーナーとしてスポーツの現場で仕事を得ることは容易ではありませんでした。大学の指導教授には、「1つ目の仕事は選べない」と言われていたこともあり、本来望んだ仕事ではありませんでしたが、まずは講師として採用された専門学校で働くことを選びました。

    偶然の出会いからドーピング検査員の道に

     専門学校で働き始めた頃は常勤講師として勤務していましたが、しばらく経ってから自分から願い出て非常勤に切り替えてもらいました。講師の仕事に不満はなかったのですが、自分自身の可能性を広げたいと思ったのです。そこで、非常勤になることで自由に使える時間を増やして、その時間を将来のための「投資」に使うことにしました。

     どんな投資をしたのかというと、スポーツ関係の法律を学ぶために日本スポーツ法学会に加入したり、筑波大学の大学院に通ったりしました。大学院は修士や博士の学位を取りたかったわけではないので、科目等履修生制度を利用しました。この制度は自分で受講したい授業だけを選択し、その単位を取得することができたので仕事との両立がしやすいのが特長です。

     筑波大学の大学院には一年間通いました。ある日、大学院で親しくなった友人から、筑波大学の教授が翻訳できる人を探しているという話をもらいました。その時点でスポーツ医学系の翻訳の仕事を複数経験していたものの、依頼元の教授がスポーツ医学界では著名な先生だったことからプレッシャーはありましたが、引き受けることにしました。その翻訳業務の発注元が日本アンチ・ドーピング機構(JADA)だったのです。

     JADAに依頼された翻訳業務を何度か請け負った後、JADAからドーピングの検査員にならないかとの打診がありました。聞けば、数日間の講習と実地研修を受けることで検査員として認定されるというのです。翻訳している際に、面白そうな仕事だなという興味を持っていたこともあり、話を聞いた瞬間、「ぜひやらせてください!」と所定の研修・実地研修を経て2005年に検査員となりました。

     JADAは現在全国に約300人弱の検査員を擁していますが、そのほとんどが検査員とは別の本業に就いており、検査員の仕事が入ったときは本業のスケジュールを調整し対応してくださっています。私も引き続き専門学校の非常勤講師や通訳、翻訳、トレーナー等複数の業務を務めながら検査員の活動をしていましたが、1年ほど経った頃、JADAの事務局の方から業務を拡大するので職員にならないかと誘われたのをきっかけにJADAに入構しました。

     JADAの職員となってからは、日本国内のドーピング検査運営管理業務やドーピング検査員の育成・管理業務だけでなく、シンガポールやミャンマーなどのアジア諸国での検査員の育成にも携わりました。また、2016年から21年までは東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会準備のため組織委員会に出向しています。スポーツの国際大会では、基本的に開催国のアンチ・ドーピング機構及び検査員が参加選手のドーピング検査を担当するのですが、オリンピック・パラリンピックはあまりに規模が大きく、世界各国の検査員の協力なくしては成り立ちません。組織委員会での5年間の大半は、大会期間中に実施するドーピング検査の準備及び海外の検査員を招聘するための準備に費やしていました。

     オリンピック・パラリンピック終了後は、JADAに戻り国際部の部長として勤務しています。業務内容は、ASEAN地域等をはじめ、海外での検査員の育成支援やドーピング検査体制の構築支援に携わっています。いろいろな国の方と接することの多い仕事ですが、高校・大学時代を海外で過ごした経験からか、外国人と接していても違和感を覚えることはありません。文化や風習、あるいは生活環境などが違っても「そういうものだ」とごく自然に受け入れることができているのではないかと思います。過去の経験がちゃんと現在に役立っていると実感できることの一つです。

    ――平井さんが大切にしていること

    自分の興味や関心です。私は「なりたい自分」が明確にあって、その実現のために努力を重ねてきたというよりは、自分自身の好奇心に導かれるような形で今に至っています。悪く言えば行き当たりばったりと言えるかもしれません(笑)。でも、「面白そう」「やってみたい」と心から思えることだからこそ、自然と努力できるのではないでしょうか。「ドアはたたいてみないと開かない」ということもあります。これからも興味を持ったこと、関心を抱いたことには積極的にチャレンジしていきたいですね。

    グローバル人材育成プログラムについて

    IIBCは、国境のみならず、あらゆる境界を越えて世界で活躍する人材を育てたいと考えています。グローバル化やデジタル化で世界がますます複雑化していく時代に大切な「個としての軸」「決断力」「戦略・ビジネスモデル創出力」「異文化理解力」「多様性活用力」「コミュニケーション力」。グローバル人材育成プログラムは、これらを学び、考え、育む機会を、EVENTやARTICLEを通じて提供していきます。

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